
1982年5月13日、わたしの父は、羽田空港の
勤務先に向かうため、いつものように9時過ぎに自宅を出ました。
母によりますと、父はその日、前日に自分で買い求めた
白いスニーカーを履いて自宅を出たそうです。
父が自分自身で使用するものを自ら購入することは珍しく、
今日は珍しいことをするなと母は思ったそうです。
その日、母もいつもとは違い、普段は見送らない父のうしろ姿を、
視界から消えるまで見送ったそうです。
父にはきっと「今日は」楽しい日になるはずでした。
しかし、その30分後,父は二度と帰らぬ人となりました。
父は勤務先前方の横断歩道を渡ろうとした時、
左側の首都高速道路より、一般道へ降りてきた乗用車にはねられ、
約20m空中に舞い上がり死亡しました。ほぼ即死の状態でした。
父にはまったく過失がなかったため、
加害者の当時22歳の青年は業務上過失致死傷の罪状で、
禁固2年の刑を受け交通刑務所に服役しました。
交通事故は被害者はもちろんのこと、
加害者も巻き込み大きな悲劇を生み出します。
今でも父が死亡した一報が、わたしの勤務先に
入った時のことを鮮明に覚えています。
事故当時、わたしは既に社会人として建設会社に勤務しており、
長野県八ヶ岳の工事現場で現場監督の仕事をしていました。
確かお昼前、悲痛な声で祖母より
「連治(わたしです)!お父さんが死んじゃったんだよ・・・!
お願いだから早く帰って来ておくれよ!!」
と電話が入りました。
祖母にとって自分自身の息子が、自分より先にこの世から
去ってしまったことの、精神的な落胆は計り知れないぐらい大きなものでした。
自宅へ戻った時には、父は頭部の出血を止めるために、
頭を包帯でぐるぐる巻きにされていました。
母は、わたしの顔を見るなり
「連治・・・。人って簡単に死んじゃうんだね・・・」
と寂しそうにポツリと言いました。
『父は空中を舞っていた数秒間、いったい何を想っていたのか?』
この事故により、わたしは父を失い、母は夫を失い、
祖母は息子を失い、そして加害者の青年はきらめく様な
青春時代を失いました。